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マシンガン・ケリーの伝説2

by Hiroshi Morinaga

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「イン・ザ・ミッドナイト・アワー」



絵を描くことは好きだったが、絵で食おうとも、食っていけるとも思ってなかった。平面よりも当時は花形職業だったウィンドー・ディスプレイやステージ・セットみたいな立体の商業美術の仕事につきたかったが、どうすれば、つけるのかまったくわからない。高卒の学歴でつける商業美術の仕事は限られていた。

姉貴の紹介で共同デザインという池袋の場末にあった工芸の会社に入った。展示場の設計と造作が仕事だったが、ぺいぺいだったので、クリエイティブな仕事などさせてもらえず、材料を運ぶくらいの働きしかできなかった。それでも不満はなかった。


土曜日の夜は目一杯カッコつけて街に遊びに行った。くりだすのは新宿、渋谷、それに恵比寿だった。新宿にはソシアル・ダンスのグランド・マスターだった中川三郎のダンス・スタジオ経営のダンス・ホールが靖国通り沿いのアドホックの前あたりにあり、よく遊びに行っていた。ミラーボールの光がまわるフロアーで客はジルバ、マンボなどのクラッシックなソシアル・ダンスを踊っていたが、30分間だけゴーゴー・タイムがあって、生バンドが演奏していた。そこはゴーゴーが踊れる最初のダンス・ホールだった。まだディスコはなかった。


やがて 新宿にディスコ〈トレビ〉ができた。三信会館の2、3軒先だった。元キャバレーのすごいちゃちい店だったが、人気があった。大学生バンドがR&Bを演奏していて、その生演奏30分、レコード30分。それを一晩で5回、繰り返すゴーゴー専門のディスコだった。

〈サンダーバード〉〈ゴーゴー天国〉〈ゴーゴーNO1〉といったゴーゴー・ディスコが次々と新宿にできていく。そこに繰り出すのはサタディーナイト。集まってくる遊び人の顔ぶれは決まっていた。彼らは各々不良グループをつくっていた。


新宿には紀伊乃國屋グループという有名な不良グループがいて、ディスコでも別格だった。みんな金持ちのボンボンで、群れて街ゆくときでも人の目をひいた。普通の若者じゃ手に入れられないような輸入ものや特注の服を着て、着こなしも抜群のセンスで、めちゃくちゃカッコよかった。

当時はカッコいいことが価値観のすべてで、そのためにみんな金、時間、神経を惜しみなくつかっていた。紀伊乃國屋グループはカッコいいだけじゃなく、みんな喧嘩も強く、度胸もよく、街の不良たちのトップにたっていたが、ある日、メンバーのひとりが何者かにディスコで刺されるという流血事件がおき、グループは新宿からひとりのこらず姿を消した。


不良たちは縄張り意識が強かった。〈トレビ〉に他の町の連中が来てると聞くと、地元のグループが乗り込んでいって、乱闘になった。そのくらいいくつものグループが自分たちの縄張りを築き勢力を張り合う男独特の本能的な価値観、世界観に生きていた。当然他の地区に遊びに行けば、その地元のグループに襲撃された。でも、敵側の誰々とダチだというと、それでいっぺんに話がツーカーになる。ナンパよりも、男たちはそんな緊張感のもとで、他の地区に遠征し、手探りで遊び場を開拓していくことにがんばっていた。


恵比寿にも中川三郎の経営するディスコがあって、そこは『アメリカン・グラフィティー』まんまだった。そこに横浜からくるグループがカッコよかった。スタイルは米軍仕込みだから、リーゼントも当時じゃ珍しいショート・カットで清潔感たっぷり。着てる服も靴も東京じゃ売ってないものだった。

横浜には〈ゴールデンカップ〉〈レッドシューズ〉とか名店があったけど、どこも東京者には敷居が高くてとても中に入れない。横浜に行っても目の前を素通りしているだけだった。

たぶんインターナショナル・スクールの学生たちだったかも知れない、横浜の不良たちは地元だと米兵ともめたり、厄介ごとも多いので、気晴らしで恵比寿のディスコまで遊びにきた。彼らはまだジルバの全盛時代に見たこともないソウル・ステップをフロアーで踊ってみせ、客は宇宙人でも見るかのように傍観していた。それが東京のディスコでも見よう見まねで広まっていった。そして、ジルバの時代は終わっていった。

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新宿のディスコでは、ビートルズが流れると、踊っていた客はシラけて席についてしまう。だけどローリング・ストーンズの『ルビー・チューズデイ』や『19回目の神経衰弱』が流れると、みんな待ってましたとばかりにいっせいにフロアーに飛び出していく。ローリング・ストーンズはすべてがカッコよかった。

映画でアンソニー・パーキンス、トニー・カーチスを見て、ハリウッド・スターはなんでこんなにカッコいいのかって最初惹かれた。世代的にはジェームズ・ディーンやマーロン・ブランドのあとのアイビーだった。でも、ローリング・ストーンズのレコード・ジャケットを見て、アイビーはマネできても、ストーンズのメンバーたちの、あのスーツの着こなし方はどうやってもできなかった。

どういうことか? ストーンズは黒人音楽をやっていた。その下層階級の黒人たちは白人のエリートたちのステータスだったブルックス・ブラザースのスーツを着たくても着れない。だから、黒人たちはズート・スーツやコンポラといった反体制のスタイルをつくっていった。でも、ストーンズは黒人音楽をやりながら、ブルックス・ブラザースみたいなトラッドなスーツを着ていた。常識をくつがえすセンスがカッコかった。挑戦的に見えた。たった一枚のレコード・ジャケットに衝撃を受けた。でも、すべては、当時、遠い世界だった。アメリカもイギリスも遠かった。ストーンズが着ていたようなスーツを買うこともできず、悔しい思いをした。

しかし、いまいる自分たちの世界でも充分にカッコよく、思い切り楽しめると気づかせてくれたのが山ちゃんだった。


山ちゃんの店のことは、当時つきあっていたガール・フレンドから聞いた。新しい店の情報をくれるのはいつも女の子たちだった。彼女たちが集まる店は新宿でも決まっていて、そこで、話題になっていたのが山ちゃんの〈ジュン・ブライン〉だった。彼女が教えてくれた。「ちゃんとしたカッコしてないと、いれてくれないよ」という。店名からして、イメージはいまでいうハイソな店だった。壁はブルー一色だった。山ちゃんと伴ちゃんはいつもブレザーで正装していた。

通ううちに、客の席に着く山ちゃんと親しく話すようになった。そのころ、仕事は共同デザインもやめていた。一人前になるまでがんばろうとやったけど、女のことで、5年しかつづかなかった。それから、業界新聞の下請けのプロダクションで、そこでは機械の取り扱いマニュアルの図解を描いていた。仕事が終わると、毎晩、〈ジュン・ブライン〉に通ううちに、カウンターのなかに入って手伝うようになっていた。


店名は〈怪人二十面相〉に変わり、壁は黒一色になっていた。話すうちに、こっちが絵を描かせてといったか、山ちゃんに描いてといわれたか、どっちがいったのかおぼえていないが、壁に描くことになった。何を描こうか、まだ50sのアイデアはなく、カッコいいのはソウルだった。

店には伴ちゃんが好きだったソウルのレコードがあり、その中から『ウィルソン・ピケットの『イン・ザ・ミッドナイト・アワー』を選び、そのレコード・ジャケットのウィルソン・ピケットを壁一面、大人の身長の2倍ほどの大きさで描いた。それが、最初の絵だった。

山ちゃんはこっちのことを何者かもわからず、たぶん、絵の好きなペンキ屋くらいにしか見てなかっただろう。どんな絵を描くかも描いてみなければわからず、山ちゃんは不安だったはずだ。でも、ウィルソン・ピケットの顔に黒いアウトラインをいれた瞬間、ずっと背後で見ていた山ちゃんの「それだ!」と叫ぶ声が聞こえた。

たぶん、大道具のバイトをやっていたので、でかい絵になってしまったのだろう。絵描きになろうとしてたら、小さな絵を額にいれて飾るみたいなこじんまりしたものになって、その後のクリームソーダの壁画はなかっただろう。


まずは、うまいへたより、人をビックリさせるでっかい人物画からはじまった。しかも壁はビニールだったので、水性のペンキは使えず、油性を使った。ペンキはテレピン油でといたので、目もやられる強烈な匂いでフラフラになり、一晩かけて描いたあと、翌日、店をオープンしても、そのまま匂いが店内に充満していて、山ちゃんは、その匂いに惹かれて客がはいってくるんだよといっていた。絵はでかい分だけ、ペンキもテレピン油の量も増えて強烈な匂いを放つ。


描きはじめたころは顔なんか、似てようが似ていまいが、どうでもよかった。レコード・ジャケットの写真を何十倍にも拡大した絵にする。それは、リキテンシュタインがコミック雑誌の小さなひとコマを拡大して描いたポップ・アートのアイデアを思わせた。最初から山ちゃんとは、絵に関して、同じセンスだった。

当時はスナックやバーという言い方しかなかった時代、山ちゃんはスナックをロック・ショップという言い方にした。

山ちゃん、伴ちゃんたちは、どのグループよりカッコよかった。当時、他にもカッコいいグループはいたが、自分たちで店を演出する連中はいなかった。みんな店の客どまりだった。〈三峰〉という洋服屋の店員だった山ちゃんは自分たちで店をつくっていった。それも、作為的なものではなく、まず自分たちが楽しんでいた。


そんな連中は、当時、他にいなかった。そんな山ちゃんたちに惹かれて、自分は仲間にいれてもらった。

(マシンガン・ケリー談)



2014年6月中旬、鶯谷の元キャバレーを居抜きでライブハウスにした〈シネマ倶楽部〉で行われたマックショウの公演にマシンガン・ケリーはゲストとして出演しライブ・ペインティングをマックショウがプレイするステージで披露した。

「昔、あんな感じのゴーゴー・ディスコで遊んでたんだよ。懐かしかった」とケリーはインタビュー中、思い出す。

ソング・タイトルのままに深夜にウィルソン・ピケットを初めて壁に描いたときから40数年の時を経ても、もうそこには山ちゃんや伴ちゃんはいないけど、マシンガン・ケリーは、あのときと同じようにいまも描いている。

なにか、そのことが、楽器の代わりに絵筆を手にしたロックンローラーのとてつもなく美しい物語のように思えた。

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