森永博志のオフィシャルサイト

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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

初めてケータイを持ったのは1995年だった。

今のケータイより型は大きくポケットにおさまらない。家電話の受話器程はあった。

ナンバーを若い友人のSにだけ教えた。

だからSからしかかかってこないはずなのに、ある日、別の人からかかってきた。

イタリアのミラノからだった。

イタリアのモード界に深く関わっている日本人のI氏で、彼が日本に来るといっしょに食事に行く仲だった。

SとI氏は親しかった。

それで、ぼくのケータイのNOを聞いたようだった。

用件は仕事の依頼だった。

『EMPORIO ARMANI MAGAZINE』という全世界に配布しているカルチャー・マガジンがある。テキストは、伊仏英3カ国語に翻訳される。

それは、〈エンポリオ・アルマーニ〉の超大型雑誌だった。

13号で、「City scape」という特集を組むとI氏はケータイの彼方、ミラノで語る。

New York、Firenze、Lisbon、Los Angeles、Barcelona、Lasvegas、Capri、Napoli、そしてTokyo。

各都市を代表するフォトグラファーに、各都市を舞台にしたファッション写真を撮ってもらい、最初にくるNYと最後にくるTokyoに関して、都市論のテキストを掲載する。

「それでね、はじめはよしもとばななさんにテキストたのもうと思ったんだけど、小説家には都市論は書けないだろうってことで、森永さんは裏の裏まで知ってるだろうから書いてもらえませんか。ただしテキストはジョルジュ・アルマーニ本人がチェックするので、彼のOKがでたら発表されます」という話で、その仕事をうけた。

自分のテキストが外国語に翻訳されて海外に出るのは、以前講談社インターナショナルの仕事をしていたので初めてではない。

イラストレーションについての論文やアーティストの作品集に寄せた作家論等。

だけど、その仕事の話に気分は高揚していた。

何故か?

高いケータイを買ったら、海外から仕事が飛びこんできた!

ケータイ、凄い!と当時、どんでもない勘違いをしていた。

別にケータイじゃなくても、ケータイがなかったら家電話の方に電話はかかってくるだろう。

当時ケータイは珍しかったので、むかしTVを床の間に日本人はおいて、神器として崇めたように、神がかった道具に思ってしまったのだろう。

そのテキストには“渋谷系”、格闘技の“パンクラス”、“玉三郎”、六本木の“トップレスバー”らについて書いた。

Titleは「No one knows the true nature of Tokyo」。

フォトグラファーは森川曻氏だった。

アンダーグラウンド感たっぷりの文章だったので、健康派のアルマーニのお気に召すかが心配だったが、I氏から「OKでました」と連絡がきて掲載が決定した。

マガジンは全世界のエンポリオ・アルマーニのショップやホテルの部屋にも配布されロンドンのホテルやNYのホテルに泊まった友人たちから、「読んだよ」と連絡がきた。

もらったギャラは、自分が主催した下北沢タウンホールでのフリー・ロック・パーティーの経費につかった。

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