森永博志のオフィシャルサイト

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プロフィール★森永博志 (もりなが ひろし)

ローリング・ストーンズがやってくる。『黒くぬれ!』を17歳の冬の夜、まだ米兵が露地を徘徊していた立川の歓楽街のスナックで聴き、頭を吹き飛ばされる衝撃を受けた。 7、8年ほど前、ロバート・ハリスのラジオ番組にゲストで呼ばれ出演したとき、おたがい『黒くぬれ!』が十代にもっとも衝撃を受けたロックンロールだ、「でも、歌の意味もわからずね」とロバートは笑う、そんな会話をした。

はじめて『黒くぬれ!』を聴いたときジム・ジャームッシュ『コーヒー&シガレット』のトム・ウエイツとイギー・ポップが出会う場末の酒場のように、ジュークボックスから、そのストーンズの歌は流れてきた。

ストーンズが初来日したとき絶対に『黒くぬれ!』を生で聴きたいと思った。もし生で聴いて衝撃が蘇らなかったら、あれは17歳という発情期の過剰反応に過ぎなかったと悟るだろう。しかしそのときぼくはもう40歳だったが、年齢など関係なくいまも、頭が吹き飛ぶのか? という期待もあった。ところでストーンズはその曲をやるか? ねっ! やらないかもしれない。

公演日の一週間前に一ヶ月ほどのアフリカ-NY-カリブISDS旅行から帰国したばかりで、ぼくのストーンズに対する期待は否応なく湯気だつほど高騰していた。そして、当日、およそその前奏からはどの歌だか想像もできない「奇怪」なサウンドが奏でられたあと、『黒くぬれ!』のあの狂おしい歌へと突入していったのだった。衝撃は17歳のときの何倍もの威力をもって襲ってきた。

二度目の来日公演にも若い友人と足を運んだが、このときはふたりともなぜかシラケてしまい、途中で会場を出て、気分転換に千駄ヶ谷のバーに行った。友人のバーテンに「ストーンズ、面白くなかった」と言うと、彼は「ストーンズは『地獄の黙示録』の『サティスファクション』だよ」「あ、あの黒人兵が、トランジスタ・ラジオで、その曲聴いてぶっ飛ぶ!」「そう。あれだよ」と御高説を聞き納得した。そうだよな、あまりに管理された空間のなかでストーンズ、聴いてもな。シアトルでキースとエキシペンシブの公演見たときは、ケムリもうもう。あれほどリラックスしたコンサートもない。

今回は三度目? 四度目? 去年ロンドンでストーンズ公演を見た知人は「ぜんぜん面白くなかった」と感想を語った。何もかもが「巨大」過ぎるのかもしれない。

それでもストーンズの来日は大きな話題になるのだろう。

ところで自分は何かストーンズに関する仕事をいままでやってきただろうか?

メンバーに取材したことはない。レコード評やコンサート評を書いたこともない。唯一書いたのは拙書『ワン・プラス・ワン」に収録したミックとキースの相棒物語だけだ。

それでも振り返り、何十年のキャリアの地平を探索していたら、ひとつ思い出した!!!ブライアン・ジョーンズ追悼ハイドパーク・コンサートの長編ドキュメンタリー映画の上映会を開催していた!

それは1971年か72年のことだ。そのころ十歳年上の現代アートの作家と主にイベントの企画制作の仕事をしていた。ぼくはそれ以前からロックの16ミリ・フィルムの自主上映会をひらいていて、いつも新しい上映作品を探していた。

その時代、ロック映画はひんぱんに制作される状況ではなく、せいぜいが宣伝用のシングル一曲分の演奏フィルムかウッドストック・フェスティバルとストーンズのオルタモント・コンサートの劇場用ドキュメンターぐらいだった。67年のモンタレー・ポップ・フェスティバルは劇場で公開されたのか記憶にない。ボブ・ディランのイギリス公演のドキュメンター『ドント・ルック・バック』も当時劇場公開されていない。ともにビデオになって見た。

大物グループの長編ドキュメンターはNHKのロック番組『ヤング・ミュージック・ショー』で放送されていた。業者が買い付けたドキュメンターの再放送までの放送権をNHKが買い放送していたが、その後は業者の倉庫に眠ってしまう。

このフィルムを映画会で上映できないか、思いついた。ロック番組を制作していたのはNHKの名物ロック・ディレクターの波多野さんだった。東大出身の才人だった。このころのちに『ガイア・シンフォニー』を撮ることになるNHK社員・龍村さんはキャロルのドキュメンターをめぐり局と裁判騒動をおこしていた。民放にもテレビマン・ユニオンの今野勉、佐藤輝ら異色ディレクターたちがテレビ界にいたころだ。

その波多野さんから業者を紹介してもらい、すでに再放送ずみだったストーンズのハイドパーク公演のドキュメンターの貸し出しを打診すると、どういう条件であったか忘れたが、借り受けることができることになった。映画は16ミリ・フィルムだった。上映会は渋谷の百貨店の特設劇場で開催した。映写機とスクリーンを持ち込み、映写技師はぼくがつとめた。

一週間の期間限定上映会だったが、その期間、手元にフィルムがあったので、友人たちのために麻布のバーでプライベートな上映会を開いた。他にも富士山麓での野外ロック・フェスティバルで上映した。関西で開催された音楽祭にも夜行バスでフィルムを運んで上映した。

当時、ストーンズのフィルムの上映にはロマンを感じていた。いったいどういう感情だったのだろう? いまでいうクラブDJのようなものか? 会場に複製文化で興奮をもたらすといった。自分はそれを映写するだけだが、暗闇のなかカタカタ音をたててまわる映写機に『ニュー・シネマ・パラダイス』の少年みたいに胸おどらせていたのか? その作品ではコンサートのオープニングにミックがシェリーの詩を読みあげるシーンは何度見ても感動した。

情報によれば去年44年ぶりにストーンズはハイドパークで公演したそうだ。知人は、それを見に行ったのかな?

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